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知恩院大方丈の障壁画

知恩院大方丈・上中下段の間の障壁画について

知恩院大方丈の東側一面を用いて、上中下段の間が設けられているが、この三室は徳川将軍家が逗留の際に、仏事以外の将軍職による公式業務が執り行うために使用されたと云われている。
間取りは君子南面の伝統に従い、北側に将軍の間(御成の間)、その南に一段ずつ高さを変え中下段の間が設けられている。
その内、下段に五人、中段に三人の仙人が描かれているのだが上段の間には仙人ではなく李白観瀑・猿曳・三高士囲棋といった図が用いられている。
知恩院方丈の建設は二条城御殿の完成直後から始まっており、障壁画も狩野の一族に託すなど両者に共通する点が多く見られる。
また京都には智積院・金地院といった家康縁故の寺院にも上・下段の間が設けられている。
将軍職として他の者の座より一段も二段も高い所に位置する上段の間は君子南面の体裁を取り、背景に描かれる障壁画もその権威を強調する意味において重要な役割を果たす存在である。
虎や獅子といった猛獣の類を描くことでその武力を示したものも見られるが、多くの場合は松を描くことが多い。それは日本文化に於いて松という樹木が神の存在を意味するからであろう。
徳川三代に関わる上段の間に関しても、江戸城・二条城・智積院・金地院の何れもが上段の間の障壁に松を用いているのである。
知恩院でも、将軍個人の居住として用いられたとされる小方丈にある上段の間は雪の積もった松の風景が描かれている。
その一方で最も将軍職としての威厳を誇示すべきであろう大方丈上段の間に描かれているのは、むしろ威厳とは対局ともいうべき長閑な日常の風景なのである。
敢えて長閑な雰囲気を醸し出そうとするならば、小方丈上段下段の間が共に山水風景を用いた様に大方丈の中段・下段の間も日常の光景を描けば良かったはずなのに、そこに描かれているのは修行によって不思議な力を手に入れた道教の仙人達なのである。
この障壁画群の配置は何を意味するのだろうか?
一つの手がかりとして、この上段の間が快慶作の阿弥陀仏を祀る仏事の空間である鶴の間に並列していることを掲げたい。さらに言うならば廊下を通じてさらに西側には宗祖法然上人が同じ向きに並んでおられるのである。
つまり将軍は君子同様南面しながら、それでいて依信転方という仏教の法則に従って西から東を向いているのである。
言い換えるならば、将軍が座する上段の間は西方極楽浄土を示しているのである。
浄土宗の教理は、聖道門と呼ばれる厳しい修行の結果として得られるものではなく、愚かな我が身であると自覚した凡夫である我々が阿弥陀如来の救済によって西方極楽浄土に往生するという浄土門の教えなのである。
中段・下段の間にいる仙人達は厳しい修行の結果、不老不死等の神力を得た。
しかし陶弘景という道師から不老長寿の秘法を説いた『仙経』を手に入れた曇鸞大師に、菩提流支三蔵が『無量寿経』こそが本当の不死である往生が説かれていると諭した如く、仙人達が手に入れた仙力は所詮、迷いの世界、穢土での威力であって本当の幸せ、迷いを離れた浄土に往生するには平凡なる日常の生活にあって信仰の中に口称念仏を称えることが大切なのだということを示しているのではないだろうか。
まさに欣求浄土厭離穢土を旗印とした徳川家康の意志が籠められているのではないかと思うのである。
そう思って見ると、李白が眺めている瀑は煩悩の赴くままに流されてしまう自身を内省することを意味しているのではないかとも思えて来る。

# by joudo1133 | 2014-09-12 00:17 | 一服  

授戒が先か?五重が先か?

布教を真剣に考える仲間と話をする度に、時折持ち上がってくるのが
授戒を先に受けた方が良いのか、五重を先に受けた方が良いのか?
という話題である。
長い間、僕としては「授戒が先である」という考えを持っていた。
何故ならば、浄土宗の信者たる以前に先ず仏教徒であるべきであり
さらに戒は仏教の大地とも呼ばれるように
「修善止悪」の心構えが先ず大切であると言うこと。
また念仏の信仰にとって「愚かなる我が身」という
自身の機をしっかりと見つめることが大事であり
その為には懺悔の心が重要になってくる。
その懺悔の心を起こすのに受戒が大きな起動力になると考えたからだ。

しかし、冷静に考えてみると必ずしも戒を受けなければ自らを振り返り
懺悔する気持ちが起きないというものでもないし
逆に戒を受けたからといって、必ず我が身のほどに気付くほどの
懺悔が起こってくるとは限らないのである。

そりゃぁ説戒師・勧誡師の実力の違いだろうという人もあるかも知れないが
実はそれも大間違いなのだろう。

懺悔の心が起こるか否かは、他者に見られていると思う所から
始まるのではないだろうか?

人前では悪いことはしないように心懸けるし
出来るだけ善い人間だと思われるよう努力するのが普通だろう。
しかし、誰も見ていないと思った途端に「これぐらいのことは・・・」と
思ってしまうのではないか?
道中で不意に尿意を催したからと言って
満員電車の中で立ち小便をする人は少ないだろう。
しかし、周りに誰もいない、誰も見ていない環境なら
例えば、人っ子一人いない山中であれば道路であっても立ち小便くらいと
当たり前のようにしてしまうのである。(少なくとも僕のような人間は)

ならば授戒は意味がないのかというと全く逆で
授戒を受けると誰もいないのに人の目が気になりだすのである。
つまり、いつもどこでも「仏様は見ている」という思いが起こってくるからだ。

そして実は五重も同じことで、いつでもどこでも「仏様から見護られている」
「仏様と共に生きていく」という思いが起こってくるのであって
この心が当然、人に懺悔の心を生起させることは間違いない。

さらに五重も授戒も受けていない方にとっても
いつも「見られている」という意識は大切であって
僧侶ならばほぼ間違いなくそれを伝えているのだ。
つまり、「仏様がお仏壇におわします」、「御先祖様と亡くなられた後も一緒」
といった心がなければ宗教など何の意味もないのである。
死者と遺族を繋ぐのが宗教の役割であり、
唯一、宗教だけが死後のことについて(少なくとも今の所)
触れる事の出来る存在なのである。

ならば、宗教に入信した者は、たとい一人っきりの時でも
常に目に見えずとも神仏先祖といった存在と共にある訳で
信仰が具わっていれば当然、懺悔は起こってくるのである。

要するに授戒を先に受けた者は、戒体という目に見えぬものを通して
仏様に見つめられているのであり
五重を先に受けた者にとっては本願力という不思議な力を通して
仏様から見護られている。
また、授戒、五重を受けていない人であっても
魂という存在を通して故人と共に生きているのである。

したがって浄土の教えにとって先ず先決なのは阿弥陀仏という存在、
そしてその仏の誓いである念仏を信じることであり
僧侶たる者は、五重・授戒云々といった形に囚われず
形振り構わず念仏の宮仕いに徹するべきなのである。

# by joudo1133 | 2014-04-09 23:59 | 懺悔  

易きことは難しい

浄土宗を立てる時に、聖浄二門という教相を説いて判釈する。
つまり自らが修行して清らかな身となって成仏を目指す聖道門と
自分の力ではどうしようもないので救ってやろうという阿弥陀様の誓いを信じて
念仏往生を目指す浄土門の二つである、
前者は長い道程をこつこつと歩いて進む困難な道なので難行道と呼び
後者は仏の言葉を信じて身を任せただ念仏のみを実践するだけなので易行道と呼ばれる。
我々が布教に携わる時、必ず言うのが
ただただ阿弥陀様の言葉を信じて南無阿弥陀仏と申すだけでいいんです。
ありがたいでしょー。
なのだが、果たしてこれは本当に容易いことなのだろうか?
確かに我々日本人は小さい時から仏様に手を合わせ、仏様を敬い、素直に信じるという行為を
親の、先祖の背中を通して見て来て心に染み付いているのかもしれない。
いや、昔は間違いなくそうだった。
しかし、戦後の日本にはGHQが我が国に推奨した(強制?)
科学の目、唯物史観というのが根強く浸透した。
苦しくつらい戦争から解放された時に連合国から与えられた自由思想は
当時の人達にとって裕福な物資と共に心を動かされるほどの魅力であったに違いない。
そしてその結果、今の僕たちは常に「何故だろう?何故かしら?」の精神によって
成り立っているのである。
昔の人達にとっては常識だった「仏の教え」が持つ絶対性は
今や半分以下になってしまったと言えるだろう。(もっとかも)
そんな時代において「仏の言葉だからと素直信じなさい」と言われても
すぐ信じられないのは無理からぬことだと思う。
もう少し正確に言えば、釈尊の言葉というのは実際には十分、若者達の
「何故だろう?何故かしら?」に耐えうる説得力を持っているのに
それを伝えるべき僧侶がはっきりと理解していなかったからこそ
信じられない人が増えているのだと思うのである。
自ら信じて人に信じさせるというのは難中の難なのである。
開経偈で常にそう称えていることを忘れずに
仏の御恩に報いるために必死になって理解しようとする努力が必要なのである。

# by joudo1133 | 2014-02-12 13:37 | 仏教  

永遠のダルマ

フェースブックをしていて驚いたことに
末法万年の後、三宝滅すという言葉を聞いて
仏も法も僧も諸行無常だから滅するのだと思っている人が
余りにも多いということが分かった。
これは末法思想について末法の部分だけを読んで
判断してしまっているから生じる誤解だと思う。
抑も、法というのは世尊が世に出ずると否とに拘わらず
永遠に存在しているのである。
法というのは存在を存在ならしめている摂理であるから
滅することなどあり得ないのである。
もし滅するのなら、末法万年の後に猶百年留まるという
無量寿経の存在は一体何であり、何故に効力を発揮出来るというのか?
冷静に考えれば分かることでお勤めの時にだって
十方法界常住仏・法・僧と称えるではないか。

仏陀に寿命があるから入滅したではないか!
これこそ無常であることを証明している!
という人は大いなる誤解である。
釈尊は、衆生に無常を伝えるために寂を示されたのである。
示寂と表現するのはそれ故である。
阿弥陀如来にも寿命があると説く経典がある。
しかし、その経には阿弥陀如来入滅の後
先ず、勢至菩薩が仏となり
勢至菩薩入滅の後に
観音菩薩が仏となり
と綿々と浄土に仏が存在することを示している。
万年で法が滅してしまったら56億7千万年後の弥勒菩薩は
存在しないのである。
何故なら、法こそが仏の本体だからである。

阿弥陀仏を報身と説くのは阿弥陀仏を別体(個別の特徴)から見た話で
阿弥陀仏に法身がないということではない。
この誤解も法と仏の関係を誤解しているからである。

末法の世には白法穏没すと言い、釈迦の説いた一切の法は滅し
法華経こそが釈尊に変わる唯一の存在になると説く人達がいるが
その人達だって法華経こそ常住不滅であり、
経を法とし、また仏として崇めているではないか。

仏は無常である、法は無常であると考えるのは
仏教を侮った見方になってしまうので注意すべきである。

# by joudo1133 | 2014-02-06 09:44 | 仏教  

二祖 長短の無間修

無間修とは念仏を申す時に間無く、隙間無く申すことであると言われる。
二祖聖光上人は常に無間を心懸け、法然上人が六万遍も申しておられるのだからと
七万遍称えるような方である。
その故に、鎮西は数多く念仏を称えねばならぬというイメージが強い。
別時に参加しても時々、聖光上人ならこのくらいでは足らぬと
叱られるのではないかと下らぬ冗談を言う時がある。
しかし、聖光上人が念仏名義集に書かれているお言葉を見て驚いた。

「無間修と言っても、夜は寝る事もあるし昼は大小便、食事もする。
細々とした用事もある。こんな凡夫がどうして無間修など実践出来るでしょうか。
と言う人があるけれども、これは容易い事は良くないと思う人がいう誤解である。
無間修といっても長短の二種類があるのだ。
十遍の念仏でも無間の思いがあり、二十遍の念仏にも無間の道理はある。
かたや一万遍の念仏にも二万、三万の念仏にも当然無間の道理があるのだ。」
と仰せなのである。

この文を見て「果たして十遍二十遍の念仏を支える道理とは何だろう」と
考えていたのだが、その答もまた聖光上人によって示されていた。

「無間修とは事をおこたり、なまける心を断ち切るものであり、
つまりは奮闘努力(勇猛精進)の心である。」

とすると無間というのは単に隙間を作らぬということでなく
心に隙間を作らず念仏を申して往生しようと努力する心を本体としていることになる。
今までも口ではそんな風に言ってきたと思うのだが
明確な裏付けを二祖様にして頂けたというのは実に忝ない次第である。

# by joudo1133 | 2014-01-29 23:53  

俺とあんたの浄土宗?

昨日、黒谷金戒光明寺という所に行ってきた。
昼下がり、極数人ではあるが絶えず参拝の人が訪れる大殿の前に
昨年伐採された熊谷直実鎧掛けの松の跡をカメラに納めているおじさんがいたので
こんにちは!と声をかけてみた。
ちょくちょく来て、写真を撮っているとのことで
水野克彦さんみたいには行かんけどねえと笑っておられた。
色々話す内に

おっさんに一つ尋ねたいんやけどね
法然さんの方が先駆者でいろんなことに先駆けてはるのに
お弟子さんの親鸞さんの方が有名っちゅうか
法然さんより注目されはりまっしゃろ、なんででっしゃろね?
そもそも弟子と師匠やったら同じこととちゃいますのか?どこがちゃいますねん?

と尋ねられた。
明確に答えるのは難しいし、分かり易くとなると猶更困ってしまうのだが・・・

いやいや、同じ浄土の教えやさかい、阿弥陀様を信じて
念仏申して往生するっちゅうのは同じことですねん。
ただね、法然上人は命が尽きる間際に阿弥陀様がお迎えに来られて
往生出来ると思もて念仏したはる、ね、
ほんで親鸞聖人はお念仏申し始めた時から救われるんやから
もう往生したんやと思もてお念仏したはりますねん。

ほう、ほな傍から見てたらどっちも阿弥陀さんにすがってお念仏したはるんやね?

そうそう。

ほな、どっちが浄土宗でどっちが浄土真宗や区別つかへんやん。

そらつかへん、心の内のこっちゃさかいに僕が松の跡見て思うことと
大将が見て思もたはることとちゃうかもしれん。
けどそんな細かいとこは別にして
あー、枯れてしもたんか〜とお互い思もてますやん。

あ、さよか!それやったらなんですなぁ
その根本っちゅうか親分っちゅうか・・・
仏教の芯はお釈迦さんですんやろ。

そうでっせ。

ほな、なに宗や、かに宗や、言わいでもええやん。

そうそう、そやけどね
大将には大将で、わしゃこれやっちゅうのがおまっしゃろがな。

そらそや、わしの思いはわししか分からん。

それが宗ですがな。

あ、ほたら浄土宗の中にもいろんな宗が・・・

そうそう、中には法然上人の顔が男前やから浄土宗っちゅう人もいはるやろ、
また本山の御前様のお話に癒されて浄土宗っちゅう人もあるやろし
僕が男前やさかい浄土宗っちゅう・・・

そらないわ!

間髪を入れず突っ込まれてしまった。

# by joudo1133 | 2014-01-29 08:56 | 浄土宗  

文献学とアイアンシェフと宮崎駿

文献学と一言で言うが、幾つかの切り口があると思う。
例えば、言語学の立場からその言語の成り立ちや歴史を考えたり
他の言語と比較して共通点を見出すことで
現代の地域的民族の見方とは異なった
言語の繋がりから見る語族の分類も文献学と呼ばれている。
日本語はウラル・アルタイ語族に分類されると
学校で習ったのがそれである。(最近はビルマ・チベット語族に分類されると大学では教えられたが、また変わっているかも知れない。)
解読不明の文字で書かれた文献を様々な角度から分析し解読していく
インディージョーンズ先生も文献学的知識を学んでいると言えよう。
しかし、仏教の講義を聞く時によく耳にするのは
ある書物を読む際に幾つかある写本を一文字ずつ突き合わせてみたり
他に引用されているものと較べたり、断片的な資料を繋げ合わせたりして
本来の原典の姿を再構築するというものでとても重要な学問である。
僕たちは、何ともなく阿弥陀経を読んだとか倶舎論を学んだとか
当たり前のように話しているが、実はその裏で大勢の学者達が
文献学的な作業を施して下さってこそのことであるということを
知らずにいるのだから気楽なものである。
原典考証という文献学は、基本作業であり最も大切な部分である。
お料理で言えば、一頭の牛を屠殺し、皮を剥ぎ、骨から身を外し
内蔵等の放るもん(ホルモン)と枝肉とに分け、その枝肉を
ロースだのフィレだのブリスケだのと部位毎に切り取り
さらに鋤焼き用だのしゃぶだの角切りだのステーキ用だのと
ご都合に合わせて切って包む迄の作業である。
我々主婦は、苦労して調理されたお肉を何で味付けしようか?と
考えているに過ぎない。
だから気を付けないと悪い精肉業者が松阪牛という触れ込みで
OGビーフを売りつけられている時も稀にあるのだ。
人の書いた物に頼らず、自分の目で確かめろというのもそこだ。
ただ最近、精肉だけし終えたら自分の仕事は終わりとばかりに
次の文献に着手して学者でござい!と思っている
料理人が稀にいるようだ。
精肉は飽くまでも基礎作業、いわば恐ろしく手間の掛かる塗り絵。
その塗り絵を何万枚と重ねてどういう話にするか?
どうやって感動を伝えるか?が最も大切な部分なのである。
僕たちは精肉など無理だが、正しく精肉されているかどうかを
見分けられれば道場六三郎や陳健一になり得るし
きちんと塗り絵出来ているかどうかを見分けられれば
天空の城ラピュタだって制作できる可能性はあるのだ。
大事なのは自分の代わりに殺生をして
肉を食べられるようにしてくれた大勢の人達、
毎日徹夜で細かい色のチェックまでして塗り絵してくれた
アニメーターの尊い下働きを忘れないこと。
また文献操作をしてテキスト復元だけしかしない人は
自分を学者だと思う勘違いをせずに
一流の復元職人に徹して置く方がよいと・・・僕は思う。

# by joudo1133 | 2014-01-28 23:35  

疑謗の難

法然上人のお言葉後編第十二に
大施太子抒海の説話と善導大師の二河白道の話が比較されている。

大施太子は海底で龍王から人々を救うために「ものごとが思いの儘になる不思議な珠」を
戴いたのだが、龍王もやはり惜しいと思ったのか、家来の龍達に取り替えさせてしまう。
大施太子は衆生救済の為に我が身一人で龍王に立ち向かおうと
貝の殻(亀の甲羅)で懸命に海の水を汲み出そうとする。
その姿を見た色界欲界の諸天達は感銘を受け、皆で海水を大方汲み取ってしまう。
これを見て慌てた龍王は、大施太子に如意宝珠を返した
という説話である。

太子は万里の海を渡り、龍王の宝珠を得た。
我々は煩悩渦巻く二河に踏入り、弥陀の本願という宝を得る。

太子は龍王が惜しんだために奪い返された。
我々は、異学異見に奪い返される。

☆問題は此処である。「異学異見」に奪われる・・・というと
異教徒や他宗派の批難を受けたように思えるが
決してそうではないのだ。
「異学異見」とは他の教え・違う見方に心奪われることなのだから
自分の心が揺らいでしまうことを警告しているのだ。
そのことを誤解すると他宗派への批判になってしまい
自らの懺悔は成り立たなくなってしまう。

太子は自ら海の水を貝殻で汲み出そうとした時、諸天の加勢を受けて目的を成就する。
我々は信心という手で疑いや謗りという困難を汲み出そうとした時、六方の諸仏が
訪れて護念して下さるのだ。

☆二河白道図を思い起こして欲しい。後ろで我々を呼び止めようとしている異学の者達、
恐ろしい顔で批難をする意見の衆、彼らは皆、他でもない我々の心に住む迷い心である。
しかし、勇気を以て、信を以て、恐ろしい水火の川も何のそのと一歩を踏み出したとき
自らの日々に起こってくる迷いの心を信心がかき出してくれる。
時折に芽生える、神も仏もある者か!!という謗りの心を信心がかき出してくれるのである。
ねんぶつを信じて申す時、周りの仏も神も「頑張れ!」と励ましてくれるのである。

東北の被害を遭われた方で、僧侶が物故者の回向しているのをみた時に
うちと宗旨が違う・・・などと心の狭いことを思うだろうか?
長崎で、廣島で平和の鐘を聞く時、あなたとは宗教がなどというだろうか?

# by joudo1133 | 2014-01-27 10:51  

安心の疑心と起行の疑心

浄土宗二祖聖光上人のお言葉に「安心の疑心」と「起行の疑心」というのが出てくる。
「安心の疑心」というのは

念仏にて往生を遂げると雖も「なむあみだぶ」の六字ぐらいは
子供だって知っていることであって、やはり念仏往生というのは
智者、学者といった「めでたき人」なればこその話だよ

と疑ってしまう人のことで、この人は往生出来ない。
「起行の疑心」というのは

念仏の行は必ず往生できるものだと信じてはいるけれども
愚かな人間であるが故に俺ほどの悪人は救われるのかどうか

と念仏行について疑ってしまう人のことをさすらしい。
前者は救うという人のことを疑っており
後者は救われる側の私を疑っているのだ。
救う人を疑う、仏の救済を疑う人は「往生」という存在を信じていないのだから
救われるはずがない。
一方、起行の疑心には往生出来る場合と出来ない場合の二種があるという。
①自分が救われる人間であるかは疑っているが、仏の本願は疑っていないのだから
念仏を申し続けることで救われる。
②仏の本願は信じているが、自分が救われる人間かどうかを疑う内に
往生を願う心が失せてしまい救われない。
の2タイプである。
この両者の往生可不可の違いは何によるか?
それは自分が悪人であると言うことをどう受け止めるか?なのだと思う。
往生の叶わぬ悪人であるから、少しでも仏の慈悲に漏れぬように
努力しようと止悪修善に励む。
その無駄な努力こそが念仏を間断なく続ける機動力となるのだ。
往生の叶わぬ悪人であるから多少、努力したって無駄だと
無駄な抵抗を諦める。
その無駄な抵抗を怠ることが結局、往生を願っても無駄となってしまう。

親鸞聖人は悪人であることをしっかりと見つめ、我が身に残されたものは
本願念仏による往生以外にないと強調されている。
これは決して無駄な抵抗を止めよ!というのではなく
安心の疑心を起こしてはならぬということをお示しになっているのだ。
もし、親鸞聖人が起行の疑心を起こしてはならぬ!とお答えになるだろう。
起行の疑心が起こらぬように先ず、徹底しておのが愚かさ、罪深さ、
下々品の極悪人であることを最優先に説かれる親鸞聖人も
起行の疑心を案じて念仏の間断なきよう導こうとされる聖光上人も
互いに念仏行者の迷いを推し量って下さっていることを決して忘れてはならぬと思った次第。

『念仏三心要集』

# by joudo1133 | 2014-01-22 23:51 | 浄土宗  

復活しました。(奇跡の生還!?)

今何となく、忘れて2年も経つこのブログにログインを試みた。
とにかくパスワードが思い出せないのでストップしていたブログである。
時々、思い出したように「らしきパスワード」を入力してきたのだが
この2年間、一度も正解を出すことが出来ずにいた。
今回もダメもとで打ち込んでみると・・・・・
何と!ブログ投稿画面が映し出されたではないか。
奇跡の生還を遂げたのでこれから仏教関係はここに書くことにしようと思う。

# by joudo1133 | 2014-01-22 22:49 | 再開のご挨拶  

対機説法

水野弘元・中村元両師編の「いのちの言葉」佼成出版社刊という本を
図書館で借りて読んでみた。
様々な経典中の名言を選び出し三枝充悳・早島鏡正・紀野一義・金岡秀友・宮坂宥勝といった
当時中堅の錚錚たるメンバーが解説を書き加えている。
その中で金岡秀友先生が維摩経の一文

仏は一音をもって法を演説す。衆生は類に随いて各々解を得。

という言葉を説明されているのをみてはっとさせられた。
殊、浄土門の布教では対機説法を強調することになるのだが
その際によく用いる「八万四千の法門」という言葉を微妙に誤解していないか?

お釈迦様は様々な人間、それぞれの人柄に合わせて八万四千の法を、み教えをお説きになった

と話すことがあると思う。
しかし金岡先生の解説に曰く

仏の説く「法」は、かって一度も時と処により、さらに聞く相手によって変容されたことはないのである。それは常に一定しており、変化はない。「一音(いっとん)である。

確かにその通りである。
法門という時の「門」はパルヤーヤという語の訳であり「方法」「手段」を意味する。
つまり「法門」=ダルマパルヤーヤは「法を説く」若しくは「法を受け取る」手段を意味している。
或いは「門」をドワーラという語で理解した場合でも、「入口」を意味しているのだから
仏法に向かう入口は八万四千あっても法自体は一つしかない。
全ての道はローマに通ずる如くに法という真理に通じる入口なのである。


「法は一定しているが、受け取る側の能力・状態・熱意は一定していない(中略)かくて、等しく説かれた仏の教えも、そのひとびとの力に応じて、十の内容にも、五の内容にも、三の内容にも受け取られることになるのである。(中略)「法」は一定しているが、受け取る側に大小・多少の条件があり、それが法をそれぞれの側、おのおのの力によって受け取るのだという解釈は、「法」と「機」の基本的関係を道破した言葉として再評価する必要があるのではなかろうか。」

そして金岡先生は、この維摩経の一文こそ、「機」を優先して「法」を把握してきた我々に対して「重要な反省を強いる言葉である」と仰るのである。

なるほど「こんな愚かな私の為に仏様が御念仏の教えをお説き下さってるんですよ!」を強調すると念仏は「アホ専用の教え」のように聞こえてしまう。
念仏の教えは釈迦一代の法、「唯一の真理」に基づいた教えであることをしっかり伝える必要があるということを改めて意識した次第である。

# by joudo1133 | 2012-10-28 19:04 | 仏教  

一致という言葉

今日は高橋御前の「念仏と戒について」という講演であった。
ごくごくおおまかに紹介する。
七祖の『顕浄土伝戒論』を見ると
万善万行を捨てて一心一行を取るのが一向専修であって菩薩戒は雑行であって専修の行いではないだろうという人がいるが、諸悪莫作衆善奉行は諸仏の通戒であって、浄土宗とて何故これに背くことがあろうか。もし一行の他に余雑を修すべからずというならば出家も離欲も雑行ということになってしまう、と述べられている。
また、法然上人は戒行兼備の師である。円戒は受法のみあって捨法なしである。ならば元祖二祖を始め受戒の師も一向専修の人ではないというのか、とも述べられている。
また良忠上人は「当世の行者は、ただ一向の言を見て諸行を誹謗す。称名の行者、少分も余法を修すべからず」という者に対して「この偏執を破るために法体について説く時は一行に万行の徳を具える。どうして念仏に具わっている万行を誹謗する必要があるだろうか?一仏一切仏、どうして諸仏を蔑ろにできるか」と説いておられる。
さらに「観念法門」にも持戒の念仏は念仏の為の持戒なるが故に雑行に非ずと述べておられる。
さらに逆修説法の清浄光歓喜光智慧光の各々に触れる者はそれぞれ戒・定・慧のそれぞれを持するに等しい者となると説かれている。
これらのことを根拠に西山助三の「それ念仏の一行は弥陀の誓願、円戒の至源は報仏の大悲なり。この故に円戒念仏言行異なるに似たれども色心法体受用変わることなし。教教異なりあれどもかつて戒念一致に極む。という説に賛同する石井教道先生の立場を取られるのである。
高橋御前はいつも質問をお許し下さるので
清浄光に照らされた者が持戒の者と等しくなること、念仏は万徳所帰であり戒の功徳をも持することは踏まえておかねばならない大切なことですが、その上で念仏>戒であり且つ行儀が異なるので念戒双修と理解してはいけませんか?とお尋ねした所、
「双修と言うと念仏だけでなく戒も修する必要があると誤解される。そう取られれば坂本の西教寺と同じに思われるだろう。」とのお答えであった。
言われてみれば確かにそうだと思う。
今一度、一致という言葉についても考えるべきなのだろうが・・・
急用が出来て、急ぎ帰る途中で喉が渇きコンビニに立ち寄り
レモン70個分のビタミンC入りと書かれた炭酸飲料を飲みながら
CC一本とレモン70個はどう考えても違うだろうと考えていた。

# by joudo1133 | 2012-10-26 23:27 |  

信心の後の疑心

これは『決答疑問抄』における問答の内、我々が五重相伝の際によくよく耳にする
内容の直前に説かれたものでこの箇所を五重相伝において話すことは先ず無い。
しかし、そこに描かれているのは行を終えた後の我々が
出くわす可能性の高い悩みが説かれているのだ。
つまり行を終えて信心決定したと言ってはみたものの日常生活の中で
ふと念仏に対する疑心が起こってくるというのである。
それは、すなわち「俺は心の底から往生を願っているのだろうか?」という悩みである。
おいおい、坊主が何ゆうとる!と言われるかも知れないが、坊主と在家とに関わらず
こういう悩みは起こってくるのではないだろうか。
好きで好きで駆け落ちまでして結婚した女房(決して僕のことではない)と幸せに暮らしながらも
本当に俺はこいつのことを愛してやれているのだろうか?
横でメールを打ってる姉ちゃんをちらりと見ながら「うーん、やっぱり若い娘は・・・」などと
思っている俺ってなんなの?本当にいいの?
こんな瞬間はいろんな場面でやってくる。
阿弥陀様にすがるしかない愚かな我が身と知りながら
そしてそんな私を救うのは阿弥陀様の本願しかないと知りながら
何としてでも極楽浄土に往生したいと熱い思いが起こってこない。
苦しみから逃れるという最大の問題に決着をつける念仏なのに
つい日々の些細な出来事の方に気を取られてしまう。
こんな俺、信心ないん??という悩み。
これに対して三祖良忠上人は
貴方は自分の機根も阿弥陀様の教え、法も間違いなく信じているではありませんか。
貴方が疑っているのは「自分自身が念仏という行に対してどう接しているか?」ということに
疑問を持っているのであって、信じるべきことはきちんと信じています。
あなたの悩みは二河白道の譬えに全て記されていますよと仰るのである。
念仏が足らぬかどうか?雑念が起こってしまうかどうか?迷って立ち止まるよりも
他に道はないことに気付いているのだから
ごちゃごちゃ言わずに渡っていけ!ということなのだ。
人生、悩んでいる暇があったら前に進め!一歩でも前進!
良忠様が励まして下さっているような気がした。

# by joudo1133 | 2012-10-04 14:58 | 口称念仏  

二つのベクトル

念仏について二つの見方があるように思う。

当然ながら基本になっているのは自身の極楽往生を願う念仏である。
今一つは阿弥陀如来の光明に照らされているという実感を得るための念仏。

二つあると言っても往生の業としての念仏なくして
如来の光明に照らされるということはあり得ないことは言うまでもない。
しかし、かといって来世に往生することを願う念仏だけでこと足りるかというと
現実にはそうはいかないのが事実だ。

日常の生活において、どうしようもなくつらい時や
人にいう訳にもいかないが、あまりに問題が大きすぎて誰かに打ち明けたい時、
何かしら寂しくて孤独を感じる時もあるはずだ。

こうした悩みを断ち切る為に厳しい難行に堪えて修行していくのが
聖道門の修行なのだろう。
かたや浄土門の我々は左様な苦行はなさずとも口称念仏をして
往生浄土さえ願っていれば弥陀の本願力によって
極楽往生出来るというのが浄土宗の教えだ。
しかし先に述べたように日常の生活において、どうしようもなくつらい時や
人にいう訳にもいかないが、あまりに問題が大きすぎて誰かに打ち明けたい時、
何かしら寂しくて孤独を感じる時に
往生を願う気持ちすら起こらなかったら一体どうなるのだろう。
やりきれず死にたいと思いつめている時に
ふと念仏申せば救われるという思いが生じたならば
自らの手で命を絶つこともあり得るかもしれない。
文楽歌舞伎の心中物などがまさにそれだし、現実社会でも遺書の最後に
南無阿弥陀仏と書かれている物も多いという。

願往生の念仏には自ら命を絶とうとする人の足枷になるものが少ないと言える。
なくはない。
往生を願い念仏申す者を仏は護念し給うのだから。
しかし、往生だけを願う念仏には生きようとする活力が必要な時に
大いなる力が不足しているように思う。

やはり日々に念仏申す時に往生を願いつつ、かたやで仏の慈悲に見守られているという
実感を感じるための念仏がセットになっていなければならないと思う。

仏の光明に守られているという実感に偏りすぎると
「世の中の全てのことは阿弥陀様のおかげだ」という思いが強くなり
それがいき過ぎると「阿弥陀様から命を頂いている」とまでなってしまうのだろう。
無論、これは浄土宗の考える世界観ではない。
しかし如来蔵という大乗仏教の根底をなす思想であることも確かだ。
浄土宗の立場としてこれを肯定する必要はどこにもないが
かといって往生極楽を心の底から信じている人ならば
「疑いなく往生するのだと思い定めて称える」という条件さえ適っているならば
別の仔細、「特別の細かい条件」は無いのだから
否定する必要もないのだと思う。
ただし、「阿弥陀様から命を頂いている」と考える人間は
必ず「念仏によって阿弥陀様から往生させていただける」という
深い信念を持っていることが絶対条件となるのである。
よく言われる三つの誕生、この内の第二の誕生を得ておく必要があるということである。

# by joudo1133 | 2012-09-24 19:53 | 口称念仏  

息諍論

スッタニパータという経典の一節。

人々は諸説の中で自分の意見が最善であると
各々がこだわり此の世において自分を高めていく。
彼は自分以外の全てが劣っていると思い
それ故に諍論から離れることがない。

他人を愚かと見るがゆえに
自分を賢明だと思う。
自分を賢明だといいながら、それゆえに
他人を軽蔑してしまうのだ。

と説いた上で、「これだ!」という確定した意見を立てるから
世間で争いが絶えないのだ、言い換えれば全ての確定した見解というのを
捨ててしまえば世間で確執というものはなくなると説かれている。
この姿勢がなければ対機説法という個人別の救済はないし
この姿勢がなければ慈悲は成り立たないのだと思う。

川を渡りきった後も筏を引き摺って山を登るならば筏は足枷となる。
我々も気が付けば諸先達のみ教えを足枷にしていないか?
振り向いてみる必要があるだろう。

# by joudo1133 | 2012-09-18 09:13 | 仏教  

特殊な宗教

今まで宗教学という立場から浄土宗を考えたことがなかったような気がする。
およそ宗教というのは必ず死後の問題を扱っているし
死後の問題に触れることこそ宗教の役割であるといえよう。
(そういう意味で儒教の存在は特殊かもしれない)
例えばエジプトの古代宗教のように魂は死後も再び肉体に戻ると考えたり
インド人の基本概念のように、死後に新たなる存在として命を受ける輪廻思想であったり
神道の黄泉の国やキリスト教の天国のように神に召されたり
何れにせよ必ず死後の問題を扱っている。
その中にあって仏教はインド人の基本概念である輪廻転生という前提を認めた上で
その流れを断ち切り涅槃に入ることを主眼に置いていることは言うまでもない。
一方、浄土教についてキリスト教との類似がよく取り沙汰されるが
確かに考えてみれば阿弥陀仏に導かれて極楽に往生するという考えは
神に召されて昇天するという発想と非常に似通った点を有している。
しかし極楽に往生することは究極の理想に到達したことを示すものではなく
そこに至ることによって本来の目標であるべき輪廻の流れを断ち切り
悟りの世界へ至る修行がし易くなると言うものであるから
宗教学の分類で行くと極めて特殊なものであると理解しておく必要があるだろう。
究極の目的に到達するための中継地点というか腰掛けというか・・・
こんな発想は他の宗教にも存在するのだろうか?とふと思った次第である。

# by joudo1133 | 2012-09-10 23:23  

助を差せ

「本願の念仏には独り立ちをせさせて助を差さぬなり」
と法然上人は説いておられる。
念仏に手助けは必要がないことを説いておられるのだ。

善人は善人ながら、悪人は悪人ながら
そのままに念仏する者を念仏に助を差さない者ということを述べている。

ならば手助けを用いてはいけないのだろうか?

悪を改め善人となりて念仏する者は阿弥陀如来の御心に適うと
法然上人はお説きになられる。

智慧、戒律、道心、慈悲・・・
これらの者はおよそ我々愚鈍の身にとって容易く実践出来るものではない。
そんな難しい修行をしてまで善人になろうと努力せずとも悪人は悪人ながら
往生することが出来る。

それでもやはり善人たらんと努力する。
智慧や持戒や慈悲を念仏の手助けとすることは大切なのである。

手助けを用いることで問題なのは
手助けを用いて努力してもなかなか仏の御心に適う善人になれぬと
嘆き、往生を疑ったり諦めてしまうことであって
善人になろうと智慧や戒等を手助けにして努力することは
むしろ必要なことなのだと思う。
飽くまでも「助」であってそれこそが「本行」ではないのだから。

# by joudo1133 | 2012-08-29 21:18 | 口称念仏  

自分で申そうとしたのか?

因果応報の道理は自業自得であり善因楽果・悪因苦果がその答である。
阿弥陀如来様はその酬因感果の理を
「大慈大悲の御心の内に思惟して(中略)五劫に及べり」
つまり、悪いことをすれば苦しい結果が生じるという道理に対して
全ての者を救いたいという慈悲の思いから何とかならないものか?と
思案なされたというのだ。
そして善巧方便(巧みな手段)として口称念仏をお説きになったのである。
自ら行う業の力では往生することも出来ない者のために
自ら万行万善をなし、その一切の功徳を阿弥陀仏という自分の名前に込めて
「衆生に称えしめん」念仏を申させようと誓われるのである。

我々凡夫は弥陀の本願に出会い天に仰ぎ地に伏して悦び
ひたすらに仏の恩徳に答えようと念仏を申す。
しかしながら「衆生に称えしめん」という阿弥陀如来の
大慈悲からなる計らいがなければ我々が念仏を称えることはなかったであろう。

阿弥陀如来、往生せし御先祖様から念仏の縁を授かっていることを忘れてはならない。

# by joudo1133 | 2012-08-29 15:45 | 口称念仏  

釈尊の言葉 坊主への誡め2

相応部ニカーヤ45道相応

「比丘達よ。朝に太陽が東に昇る時、そのさきがけとして前兆として
東の空は明るく白むであろう。
同じように比丘達が善き道を進もうとする時にも
さきがけである前兆がある。
それは善き友の存在である。

善き師、善き友、善き後輩を持つこと
これこそが聖なる修行の全てである。

比丘達よ、友の悪しきは大いなる不利益をもたらす。
比丘達よ、友の善きことは大いなる利益をもたらす。」


ある時、比丘達が集って「出家する前に身につけた習い事」について
どの習い事が優れているか?という話題について話がはずんだ。
象の調教、車の操縦、弓術、馬術、剣術、書道、算術、詩吟といった
得意技が並べられ盛り上がっている所へ釈尊がお出でになられた。
そこでことの次第をお尋ねになった後、釈尊は静かに語られた。
「そのような談話は出家した身であるそなたらに相応しいだろうか。
比丘達よ。汝らが集うた時になすべきことはただ二つ。
一つは法に関する談話、今一つは聖なる沈黙である。


穴があったら入りたいような話である。
まさしく僕らは名のみの比丘ということだ。
せめて信者の方々に聞かれても恥ずかしくないような
和尚様らしいと思われるような話題を持ちたいものである。

# by joudo1133 | 2012-08-27 11:23 | 釈尊  

釈尊の言葉 坊主への誡め

中部ニカーヤ48コーサンビー経

「比丘達よ、汝らは議論し激しい言葉を用いて争い
いつまでも合議しないというのは本当であるか?

世尊よ、本当です。

比丘達よ、次のことについてどのように思うか。
互いに討論し争い激しい言葉を用いて相手に語る時
汝らは常に相手の立場に立ってふるまい
相手の立場に立って語り
相手の立場に立って考えているだろうか?

そうではありません。

そうでないのなら汝らは何を求めて争論しているのか。
愚か者よ、そのようなことはただ不利と不幸のみを招くのだ。」


この釈尊の言葉について我々はしっかりと耳を傾け
深く心しなければならないと思う。

# by joudo1133 | 2012-08-27 07:48 | 釈尊  

戒について(なめてんのか版)

毎回、お前の書くことは難しすぎて分からんぞ!と勢州白子の大僧正から
お叱りを受けたのでフェースブックに載せたのを特別版として記載しておく。

坊主が授戒という儀式で何をしているのか?

お釈迦様が説かれた「幸せになるための生活法」を、
先ず聞かせていただきます。(戒相)
で、これを聞いた時には「ほう、成る程!」と思うんですよね。
でもまだ心底分かったというのではないんです。

で、「これはね、他人事やないんよ!君がせないかんのよ!分かった?」と
和尚さんから確認される。
「あ、はい!分かりました。」と答えると
「ほんま他人事ちゃうんよ!分かってんの?」と
小言ばばあの如くに駄目押しされるんですね。
脅えてつい「はい!ほんまです!」と答えると
さらに追い打ちをかけるように
「きちんと答えて!ほんまに守るんやね!?」と
釘を打たれるんです。(三羯磨)

「絶対ほんま!信じて下さい!ほんまです!」と答えると儀式が終了します。(戒儀)

その瞬間に心の中に「戒体」というものが備わるというんですね。
さて、その戒体とは何か?
儀式の後、日常生活に戻るんですが・・・
今まで良からぬことをしてたなあと思うんで真面目に暮らすよう努力する。(戒行)
だけど、ふと「まあええやんか、ちょっとくらい!」と
やさしい誘惑を与えて下さると、つい「ちょっとぐらいええかな?」と油断が生じる。
その時に「分かってんの!」っていうあの小言ばばあの前で誓った時の映像や音声が
フラッシュバックして反省を促す。
で、悪いことをせずにすむ。
この小言ばばあの映像や音声が「戒体」と呼ばれるものだという話です。

ただ誓いをする相手が小言ばばあではなく仏様ですから
誤魔化そうったって簡単にはいきませんよね。
仏様が見てござる!ってことです。

# by joudo1133 | 2012-08-19 14:53 |  

年中法要

漸くお盆の行事も一段落し、ホッとしたのも束の間で彼岸の用意に入る。
以前、浄土宗の大布教師といわれる野島先生の布教CDを買わされたことがある。
つきあいで渋々購入したのだが、野島宣道という名前すら知らなかった駆け出しの
人間にとって大布教師と言われる方の説教が聞けるのだから
金は惜しいが、それなりに楽しみにしていた。
昔の布教師さん独特のなんとも味のある話の流れ・・・ではあるのだが
一席聞き終わって首をかしげてしまった。
法話の内容が浄土宗ではなかったのである。
無論、始めと終わりには「阿弥陀様の本願を」という言葉が説かれているのだが
肝心の「彼岸」に対する説明、「盂蘭盆」に対する説明、「涅槃」に対する説明が
全く浄土宗の話ではなかったのだ。
僕と違って同じ人間からタダでCDを貰ったというi上兄弟筆頭と二人で
「これは浄土宗とちゃうなぁ、がっかりや」と話し合っていた。

およそ二十年近い歳月が流れて今に思うことは
野島先生の説教は「あり」ということだ。
以前、失望していたものが何故今に「あり」となったのか?
当然、そこには僕の心に変化が生じたことになるのだが基本的な姿勢については
20年前も変わっていないと思う。
ただ「あり」か「がっかり」の基準となる「念仏を説く」という時の
「念仏」に幅が出てきたように思う。

「凡夫救済の念仏」を説かなければならぬ!
「いかなる悪人をも救う弥陀の本願」が説かれなければならぬ!
ということに強い意識が置かれていた昔に較べて
今は・・・
皆で「集い」、そして一緒に「仏様の存在」を感じ、ともに「喜び」、
「念仏を申す」時間が釈尊始め法然上人等様々な方の御縁によって
設けられているという思いが強くなってきた。
つまり「別時」としての年中法要の主役は飽くまでも
皆でともに唱えるお念仏であるということである。

彼岸に六波羅蜜の実践を説くのを聞くと「それが実践出来ぬから本願じゃないか」と
思って躍起になって否定する。
そして無理から彼岸の由来を念仏にこじつけてしまう。
盂蘭盆にお精霊迎えの話をすると「故人は即得往生している!」と
意地になって批判する。
しかし幾ら足掻いてみても由来がそこである限り、どうしたってこちらの方が
こじつけになってしまうのは言うまでもない。

こじつけでも我が宗の正論を通すべきだ!という姿勢は大切なことである。
しかし、正論を通さんが為に本意を否定することがあってはならぬはずだ。

本宗以外を認めぬのではなく、本宗以外と融合することが大切なのではないか?
してみると野島先生は無理にこじつけることなく
素直に八万法門の一つとして受け入れた上で、我が宗にはお念仏と結ばれるのだから
無理のない話なのだなあと・・・
20年経って漸く気付き始めている次第である。
気の利いたこじつけがしたいものだ。

# by joudo1133 | 2012-08-19 10:07 | 仏教  

悪人・罪人・凡夫人・愚鈍 6

善導大師の観無量寿経疏では
下品上生について「十悪を造る軽罪の凡夫人」
下品中生は「破戒次罪の凡夫人」
下品下生は「具に五逆等を造る重罪の凡夫人」
と説明していることを述べたが、ここでどうしても理解に苦しむのは
「十悪を造る軽罪の凡夫という」点である。

およそ上から軽い罪、その次の重い罪、最も重い罪という順に並べているのだが
最も重い罪が「五逆等」であることははっきりしている。
五逆等という言葉の「等」の中に誹謗正法や一闡提が含まれる。
五逆は父・母・阿羅漢(師匠)を殺す者、仏教教団を破滅に導こうとする者、
仏を傷つけたりする者を指す。
一闡提とは断善根とも呼ばれ成仏する可能性のない者である。
さらに誹謗正法とは正しい仏教の道理に対して避難を浴びせるもので
これらは何れも仏教という存在自体に背を向ける態度を示すのだから
本来、仏教においては救いの対象から外れるべき者である。
これらへの往生を認めることに関しては以前にも触れたし
今後も熟慮を要する課題である。

それは今回、さておくとして軽罪とされている十悪とは
殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・邪見を指し
前の3つを身三、次の四つを口四、最後の三つを意三と分類される。
殺生から妄語までの四つはご存じの通り、五戒の内の飲酒を除く者である。
さらに意三として挙げられる貪欲と瞋恚は大乗仏教の説く煩悩の内でも
最も障りとなる三毒の内の二つである。
邪見に至っては仏教の理法について誤った見解を示すもので誹謗正法に
準ずる心のあり方と言える。
何故、この十悪が軽罪として判断され下品上生として説かれるのか。

実は、この十悪について善導が注釈した観無量寿経自体は

「下品下生とは或いは衆生有り。不善業の五逆十悪を作り諸の不善を具す。」

と説かれており十悪は下品下生に位置付けられているのである。
善導大師は何故、観無量寿経の注釈において観無量寿経と
異なる理解を示すのだろうか?

これを説く鍵として「選択集」の次の文が考えられるのではないだろうか?

「九品とは三福を開して九品の業となす。」

つまり、散善の行体を示すものが「三福」であり
「九品」は散善の行業を修する「人」=凡夫を福徳の浅深・罪の軽重によって
分類したものなので、三福を開いて分類をすると九品になるというのである。
選択集の説明によれば
「上品上生」は世福・戒福・行福の三福に基づいており 
「上品中生」「上生下生」は行福に基づく。
「中品上生」「中品中生」は戒福に基づいており
「中品下生」は世福に基づいているのである。
そして下品の三人は当然ながら三福に値することはなく
むしろ三福と逆のベクトルに働いている罪の軽重によって
上・中・下生に分類されていると考えられる。
法然上人は

「この三品は尋常の時、ただ悪業を造りて往生を求めずと雖も
臨終の時、初めて善知識に遇いて即ち往生を得る。
もし上の三福に准せば第三福の大乗の意也。」

と説いているが、これは臨終に臨んで仏や極楽の功徳を聞いたり
念仏を申すことの功徳が大乗の救済を示す行福に当てはまることを
説いているのであって、下品三人を区別する基準が何かを説いたものではない。

観無量寿経において三福の内、世福は「孝養父母、師長奉事、慈心不殺」に加えて
十善業を修することであると説かれている。
戒福は仏教徒としての戒を受けた者が起こす功徳であるが
下品中生で説かれる破戒には邪命説法が説かれているのだから
破戒の僧を意識しているのかもしれない。
行福は大乗仏教の救済に重点が置かれていることは間違いない。

これら三福を世福・戒福・行福の順で上・中・下を定め
逆のベクトルで罪を考えると
上生=十不善業=十悪
中生=破戒
下生=大乗誹謗
という順序になり、善導の説く順番になる。

善を行うという意味では大乗の実践こそが最も貴く、
次いで仏と誓った戒の実践が貴いのであって
世俗の孝行や道徳から生じる善業よりも
それらの方が功徳があるというのが「福」の理解であり

その逆、つまり
道徳上考えても重い罪である十悪、
しかしその道徳上の悪も含めて止悪修善に励むと誓った
受戒者(特に出家)が約束を破る方が罪が重く
それらの重い罪を作った者にすら救いの手を延べようとしている
大乗仏教で説かれる仏に対して誹謗する者こそ最も罪が重いというのが
善導大師が考えられた下品三人の順番ではないだろうか。

罪の重さは単に行った内容だけでなく
仏教という存在そのものに対してどう関わってくるのか?
によって一見些細な罪のように見えても重罪となってしまう。

「神も仏もあるものか!」と苦しい時に口にしてしまいがちだが
一見して些細な口業は誹謗正法という最も重い罪になる。
「私のような者が往生出来るはずがない」という怯弱からの言葉も
同様なのだから「本願を信じる」ことがどれほど重要であるか
よく考えるべきなのである。

# by joudo1133 | 2012-07-29 00:04 | 衆生  

悪人・罪人・凡夫人・愚鈍 5

凡夫という言葉を聞いてすぐ頭に浮かぶのが「導師の釈に曰く」という
食事の時の作法で唱える言葉である。
上品三人是遇大凡夫、中品三人是遇小凡夫、下品三人是遇悪凡夫。
という文で幾つか唱える善導大師の観経疏の文の内、一番憶えやすいので
僕が加行の時はどれから唱えてもよいことになっていたから
早い目に唱える番が回ってきたら間違いなくこの文を唱えていた。

当時はずっと大凡夫、小凡夫、悪凡夫と呼ばれる者達がいるのだと思い込んできたが
考えてみると

上品の三人(上・中・下生)は是れ、大に遇える凡夫、
中品の三人は是れ、小に遇える凡夫、
下品の三人は是れ、悪に遇える凡夫なり

ということになる。

ここでいう大は大乗、小は小乗を指すのだが、下品の三人に関しては
悪に遇える凡夫というのだから
言い換えれば上品と中品の凡夫は悪なる者ではないということになる。

上品の上・中・下生について観経疏散善義の上輩観には
上品上生を「大乗を修学する上善の凡夫人」としている。
上品中生は「大乗次善の凡夫人」、上品下生は「大乗下善の凡夫人」と説明する。
同じく中品について
中品上生は「小乗根性の上善凡夫人」、中品中生は「小乗下善の凡夫人」としている。。
中品下生についての説明は
「世善上幅の凡夫人」となっている。
中品上生・中生の善は共に世善(世福)ではなく
戒善(戒福)であり、上品の三人は何れも行善(行福)を生じるとしている。

上品・中品が善の凡夫であり、そこでいう善は善業から生じた三福(無表)を指しており
下品が悪の凡夫であるということは、ここで示される悪は
悪業から生じた罪(無表)を指していると思われる。

まさしく下品上生については「十悪を造る軽罪の凡夫人」
下品中生は「破戒次罪の凡夫人」
下品下生は「具に五逆等を造る重罪の凡夫人」
と説明している。

我々は今まで、凡夫という言葉をイコール「悪人」或いは「罪人」として
用いてきたのではないだろうか?
しかし、凡夫の往生という場合においても
善導大師の姿勢、さらにその教えをそのまま「選択集」に受け継がれた
法然上人の姿勢を重んじるならば
凡夫とは「悟ることの出来ぬ者全て」「聖ならざるもの全て」と理解すべき
なのであろう。
念仏往生のことは下品下生において初めて説かれるが
それは底辺を説くことで上限まで摂することを二師が説かれいることは言うまでもない。
このことを踏まえたならば
諸行往生という時の、念仏以外の行で往生できる人は
凡夫で無く聖者を指すということも知られるべきである。

ところで下品に説かれる罪の軽重について不思議なことがあるのだがお気付きだろうか。

# by joudo1133 | 2012-07-25 22:48 | 衆生  

性無作仮色の補足 (髭和尚殺害の譬へ)

性無作の仮色の理解について多くの方が悩まれているようです。
性というのは善・悪・無記(どちらでもない)のことを指しています。
ここでは善か悪かのどちらかの性分です。
次に無作は無表と同義で身・語の二業によって造作されていない=表されていないという意味です。
無表「業」の場合は身・語の二業によって表されていない意業(心の働き)を指しています。
ですから業という観点から言えば「心の行い」と理解して良いのです。
それなら心法戒体でええんとちゃう?と思われますが・・・。
業の性分を考える際、「髭和尚に殺意を持った女性が包丁を手にした。」
このアクションはまだ殺人に至ってないので十悪罪ではない。
「包丁を腰でしっかりと固定して髭和尚の方へ詰め寄った。」
これも、次の瞬間に髭和尚必殺の腕ひしぎ十字固めを喰らって
未遂に終わるかも知れないから罪にはならない。
「いよいよ、包丁が髭和尚の脇腹をえぐり、哀れ和尚は息絶えた。」
この瞬間の体で表された形(眼の対象である色)こそが悪という性分を決める業となるんです。
それはまた、フィルムの1コマだけなのですから色法ということになる訳です。
ですから次の1コマで
「女性は息絶えた和尚に熱い口づけをした。」
ということが万一あったとしても、これは善でも悪でもないことになります。
しかし、「脇腹をえぐり殺した」というたった1コマのポーズ(色)は
髭和尚を殺した女性の後々の心に大きな影響を与えていくことになります。
つまりその1コマ(色)が彼女の「心の働き」(=意業)に影響を与えることになります。
これを悪性にして表面的行動には表されない(=無作)色ということになる訳です。
ところで色の代表的な定義として「必ず抵触性を持つ」というのがあります。
つまり触れることが出来るというのです。
この発想は現代の科学にかなり近くて
眼の対象となるイロ・形(狭義の色)は眼という器官に光が接触していると理解します。
耳の対象となる音色(声)は耳という器官に空気の振動が接触している。
鼻の対象である匂い(香)は鼻という器官に匂いの粒が接触している。
舌は味という物質、皮膚(身)はまさしく物質が接触している。
という考えです。
要するに五感の対象になるモノが色ということになります。
ところが先ほど挙げた悪い性分を引き起こす要因となってしまうような形や
良い性分の影響を心に与えるようになる戒体などは
過去に過ぎ去ってしまった色であり、現在には存在していないのに
現在の人の心に影響を与えてしまう。
だから色でありながら五感によって認識出来ないという矛盾が生じてしまうのです。
そこで仮なる色と呼ぶ訳です。
唯識法相では六処の内、色処~触処には収まらない色であり
これは法処に収められる色であるとして「法処所攝色」と呼びます。
この中には戒体や罪・福のような無表色の他に
禅定に入っている時に見る景色や仏などの姿、さらに虚空色=空間、
そしてヒックス素粒子の話にも引いた
極微(原子のようなもの)まで含まれています。
共通項は、いずれも我々の直接知覚・五感では捉えることが出来ないけれども
色と考えなければ仕方のないもの(唯識以前の仏教にとって)であるということです。
ますますややこしいですが、「殺した」という瞬間の形のみが「罪」になるという考えや
その後も罪を引き起こす要因となるものが心そのものでなく過去した1シーンの
残像に過ぎないという理解が実はとても大切だと思います。
譬えとしてはフィルムのトラブルならば新しいフィルムに換えれば撮り直せるが
カメラ本体のトラブルは修理するのに手間が掛かると言うことです。
逆に善業である戒体の方は、いくら心で良いことをしようと思っていても
仏の前で身と口を使って約束しなければ意味がない。
カメラの本体がどんなに立派な菩薩のようであろうとも
フィルムを入れなければ写真は撮れないということです。

余計、分かりにくくなったかもしれませんm(_ _)m

# by joudo1133 | 2012-07-19 00:37 |  

戒体というややこしい話 後編

天台の伝統的理解に従って、戒体を「性無作の仮色」と理解した時
戒体は心に影響を与えるモノとなる。
その場合、心は「一瞬ごとに善であったり悪であったりどちらでもなかったり
と恰もカメレオンのように刻々と豹変し続ける」という定義が成り立つ。
猿が木の枝をつたい渡り歩くようなものである。
決して器ではなく、常に変化し続ける存在である。
そして心はその都度、良い行いを作り、悪しき行いを作ったりしているのである。
そこに戒律という「仏の言葉」を聞く縁が生じた。
「なるほど、今まで自分の作った行為の内、これこれはなすべきではなかった!」
と気付かされるのである。
そして、その仏が説いた「救われるためのマニフェスト」を守っていこうと
自分の体を大地になげうち、大きな声に出して「必ず守る!」と仏の前で
約束をするのである。
体と声で自分の意志を表示した時点で、目には見えぬが自分と仏との間に
強い結びつきが生まれるのである。
それは恰も馬を引く手綱のようなもので誤った行いをしようとした時に
「そうだった、仏と誓ったではないか!」と抑制が働くのである。
良い行いをしようと思った時「仏も勧めておられた」と助長される。
もちろん、この手綱は心そのものではなく「約束」という心に影響を与える
ものであるから心の方がよほどの「じゃじゃ馬」であれば
手綱が引ききれぬ時もある。
愚かな我々の心はそう簡単に変わるものではない。
しかし戒という手綱が少しでも良い方向へと導いてくれる。
それは「約束」は守らねばならぬという心が働くからであり
仏に見られているという心が働くからなのである。
結局の所、今以て戒体とは何か?という明確な答は出せてはいないが
戒もまた念仏と同様に
「凡夫と仏との間で取り交わされる約束」
であることに違いはない。

凡夫→仏(戒)
凡夫←仏(願)

# by joudo1133 | 2012-07-17 11:19 |  

戒体というややこしい話 前編

先の書き込みに述べた習慣性の問題が戒に繋がることは一目瞭然である。
およそ戒、殊に大乗戒、しかも「日本における」となると
極めて難解な問題が山積みである。
それでも授戒会というものがある限り、その儀式で伝える内容は内容として
それとは別に(本来は別にすべきではないのだろうが)どこかで
「浄土宗における戒とは何か?」を意識しておく必要がある。

法然上人が戒体について「心」ではなく「性無作仮色」すなわち「無表」として
理解すべきだと説かれたのは宗内でよく取り沙汰される所である。
しかし、これは法然上人が特別に優れた理解を示した訳ではなく
天台においては南岳慧思、天台智顗以降連綿と受け継がれてきた教義であって
むしろ叡空上人ほどの方が心法戒体と理解した所に注目すべきだと思う。

戒体とは何か?を理解する時、それは「自分自身の心が戒の基盤である。」と
理解するのが最も分かり易いのだとは思う。
日々の生活において善悪様々な行いをする我々は、心という大きな器の中に
善い行いをすることによって善い種を積み、悪い行いをすることで悪い種を
蓄えていく。(福と罪)
心の中には善と悪とが混在しているのだが、戒の内容を耳にすることによって
心の中に戒体という今までとは異なる善の種が芽生える。
この戒体という種が他の善なる種を助長し、悪の種を制御していく。
この説明だけでは戒体を始めとする種は心と別個のものなのか同じものなのかが
はっきりしないが、心の中に心とは異なる「モノ」が存在するはずはない訳で
そういう意味で「種」は心の一部と考えざるを得ない。

戒体という心の一部の役割が「止悪修善の力」であると考えるならば
戒が備わることで心の中にある「悪い部分」を抑制し「善い部分」を
助長するという働きは、心の中での変化ということになる。
戒体を備えることでしか心に変化が生じないならば、戒を受けなければ
善を行い、悪を押さえることは出来ないのか?というと
決してそうではなく戒体の有無に拘わらず善を行うこともあれば
悪を押さえることもあるのだ。
逆に戒体を受ければ必ず止悪修善に動くかというと必ずしもそうではなく
やはり、戒に背いて造悪怠善たる時も生じてくる。
それでも戒体があれば慚愧の心が生じるとも言えるが
逆に慚愧の心は戒体がなくても生じるのである。
もし戒体そのものが心であるとするならば、それが有るか無いかで
どう違うと理解すればよいのだろうか?

一方、戒体を心とは別個の存在として理解する場合はどうなるのか?
先ず、大事な事は「戒体とは心とは異なるモノである」と理解することで
心を器として理解する必要がなくなるのである。
心を器と考えた時、罪や福、そして戒体は心の一部分であると考えざるを得ない。
しかし、心が器でないならば罪や福、そして戒体という存在は
「心に影響を与えるモノ」となる。
つまり心とモノの関係で理解すればよいということになるのである。

# by joudo1133 | 2012-07-17 11:17 |  

悪人・罪人・凡夫人・愚鈍 4

仏教において「罪」という時、悪い行いそのものを
「罪」とイメージしがちだし、確かに罪という語で表されるものの
多くは「悪業」と同義である。
それでも「罪」は業とは別の物として分けて理解した方が良いと思う。

というのは諸行無常を説く仏教において行為「業」そのものは
次の瞬間には滅してしまうものだからである。
悪い行いをした時、その報いは「苦」となって返ってくるというのが
仏教の基本だが、行為そのものは形の連続であるから
パラパラ漫画の一枚に「ナイフで人を殺す」瞬間が描かれているとするならば
その一枚が悪なのであって、次の頁で「ナイフから手を離す」絵が
描かれていてもそれは「悪」とは言えないことになる。
ならば「諸行無常」の所為で「因果応報」という理屈が
成り立たなくなってしまうのではないか。

そうした疑問に応えるべく「罪」と「福」とが説かれるのである。
悪い行いを「罪」と呼ぶ場合は、正しくは「罪業」と呼ぶ方が良い。
「罪業」によって「罪」が生じるのである。
つまり、「悪い行い」=罪業を犯した時、次の瞬間にその行為は滅してしまうが
その瞬間に「悪い行い」によってそれ以降の行いに影響を及ぼす
「波」の如き「余韻」が生まれるのである。

こういうとややこしくて分かりにくいが、この「余韻」を「癖」と呼んだら
少しは分かり易くなる。
今まで真面目にお金の経理をしていた人間が、ある時ちょっとした
きっかけで帳簿から1000円の収入を誤魔化して
自分のポケットに収めたとする。
この瞬間、彼は「盗み」という癖=「余韻」(罪)を作ってしまう。
心に欲のあるのが人間だから、その余韻にまかせて
再び「罪」を「重ね」てしまうのだ。
逆に「善い行い」もまた「余韻」を生じる。
その「余韻」を「福」または「功徳」と呼ぶ。
今まで一度も先祖の墓に参ることもなく、寺の本尊に
手を合わすこともなかった男が、ふとしたことで
寺の別時に参加して法話を聞いた時に「ああ、俺は今まで間違っていた」
と反省し、救いを求め仏の御名を称えた。
この時、彼の心には「功徳」という善い響きが心の中に広がる。
穢れた心ではあるが、その心の中に「福」「功徳」という
後の行いに影響を及ぼす「余韻」=習慣を積み重ねていく。

もしこの余韻や習慣というものを考えずに、善業を維持し続けようとするならば
穢れた心によって善業を起こすことは非常に難しいものになるし
逆に、一度ぐらい罪を作った所で引き続き悪を犯してしまうことを
恐れる必要もなくなる。
善なる心を悪に引き込む習慣性、穢れた心でも善を保とうとする習慣性
こうした存在があるからこそ修行する価値があるのではないか。
悪しき習慣の中にいる我が身に気付き、良き習慣を身につけようと
己を戒めることを否定する仏教など存在しないのである。
たとえ悪しき習慣が断ち切れなくても「断ち切れない自分」に
気付くことがなければ「救いを求めて行う善業=念仏」は
生まれてこないのである。

# by joudo1133 | 2012-07-16 16:54 | 衆生  

知ったかぶり

百山大殿の宮殿荘厳に竜と異なり蹄を持った動物が描かれており
毎月15日お参りの方に「麒麟」と説明していた。
その動物の上にもう一つ竜に似た猪のような脚をした動物がいるのだが
何だろうと気にかかっていた。
昨晩、久しぶりに妖怪学を学んでいる内に重大なミスに気付いてしまった。
麒麟は偶蹄目ではないか!
実は僕がずっと麒麟と説明して来た動物は竜に似ているが
蹄がある、しかしその蹄は偶蹄(双爪)ではなく
奇蹄(一爪)なのである。
調べた結果、陽明門等にも描かれている「龍馬」であることが分かった。
知ったような顔で「蹄があるから麒麟です」と臆面もなく語っていた
我が身が実に情けなく嫌に思えて来るのだった。
今まで参拝して下さった皆さん、ご免なさい!

今年3月以降にお参りの皆さんへ。
先日、お話した「麒麟」は「竜馬」間違いでした。
「麒麟」は、そのもう一段上にいる爪が二つに分かれた動物です。
訂正させていただきます。

# by joudo1133 | 2012-07-14 09:44 | 懺悔  

悪人・罪人・凡夫人・愚鈍 3

仏教において善悪という場合、究極は「悟り」、「涅槃」に向かうことが「善」であり
逆にその妨げとなる煩悩を起こすことが「悪」であると説明したが
当然ながら道徳的基準に基づいた世間の善悪も仏教の説くところではあるのだから
浄土宗で用いられる「悪」はどの段階のものであるのか?考えておく必要がある。

「悪人は悪人ながら・・・さりながら悪を改め善人となりて念仏せん人・・・」
                              (御法語前編14)
「善きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては悦び、悪人を見ては悲しみ・・・」
                              (御法語後編22)

これらは文意を考えると、所謂世に言う「悪人」、道徳的観念に基づく
「悪」と解してよいと思う。

一方、一紙小消息に見られる

「我が身、悪ろしとても疑うべからず。自身はこれ、煩悩具足せる凡夫なり・・・」
                              (御法語前編10)

は煩悩の有無について述べており、涅槃を目的とする「善」の妨げとなる「悪」と言える。

我々が「悪人」という言葉を聞いて先ず想起してしまうのは親鸞聖人が説いたとされる
悪人正機説の根底となる
「善人なおもて往生を遂ぐ況んや悪人をや」
という文章であろう。
ここで親鸞聖人が取り上げている「悪人」が何を示すか?は
真宗教学を学んでいないので差し控えるが
よくこれと対比して並べられる法然上人、一紙小消息の言葉は
「罪人なお生まる、況んや善人をや」
である。
一紙小消息では先に挙げた「我が身悪ろしとても・・・」という
悪人の往生についてとは別に
「罪人なりとても疑うべからず。罪根深きおも嫌わじ・・・」
として罪人の往生する根拠を掲げている。
後に凡夫とは何か?について触れたいと考えているのだが
少なくとも小消息について見る限り
法然上人は悪人を凡夫と同義として捉えていると見るべきである。
最初に掲げた事例は道徳的基準、世間一般が示す善悪を説いているのだから
一概には言えないとは思うが、煩悩具足せるか否かを基準として
善悪を見るならば、当然そこには世間的悪もまた含まれることになる。

このことを考慮するならば親鸞聖人が説く「善人猶生まる況んや悪人をや」は
法然上人が説く「罪人なお生まる況んや悪人をや」と全く反対の内容を
説いているとはいえないのである。
むしろ、『念仏往生要義抄』の

「念仏の力にあらずば、善人なお生まれ難し。況んや悪人をや。」
                           (御法語後編28)
に説かれる「悪人」に対する理解とを比較すべきではないだろうか。

# by joudo1133 | 2012-07-14 00:17 | 衆生